よさみ2011/03/03

今日は定休日でお休みです。
ちょっと行ってみたい所があったので行ってみました。
場所は刈谷市で家からは車で30分程度です。

という訳で、目的地へ到着。
「フローラルガーデン よさみ」というちょっとした公園です。
特に入場料が必要な場所ではありません。
ちなみに、「よさみ」とはこの付近の古い地名で「依佐美」と書きます。
依佐美村は安城市と刈谷市に分割され、今はこの地名はありません。


ここへ来たのは、別に公園に来たかった訳ではありません。
公園の敷地内の先に目的地が見えてきました。


ここが目的の場所です。
建物の壁から怪しい角が2本突き出ています。


この建物は「依佐美送信所記念館」という所です。
かつてこの場所にあった依佐美送信所を後世に伝える為に建てられました。


記念館に入ると送信所にあった古い設備がまるで使用中の様な感じで展示してあり、とても驚きます。
送信所があった頃のジオラマがありました。
ここには送信設備と共に、巨大なアンテナがありました。250mもの高さを持つ鉄塔が8本も建っていたのです。
私はここから直線距離で15km程東にある岡崎市に住んでいますが、家からでもこの鉄塔の赤く点滅する光が
よく見えました。それに気付いたのは多分、小学校の時で普通にいつもの夜景として見ていましたが、
ちょっと前から光が見えなくなった事に気付いていました。
調べてみると、1997年にこの鉄塔は撤去されていました。普段、気にしていないのですぐに気付きませんでした。

この鉄塔はVLF(超長波)という大変長い波長の電波が出ていた物という事は知っていましたが、
中学の時、先生からアメリカ軍が対潜水艦用に使っている設備と聞かされていて良い印象がありませんでした。
ところが、今改めて調べてみると、これは元々日本が作った素晴らしい施設であった事が分かりました。
今までの誤解が無ければもっと違った見かたができていたでしょう。既に存在しないのは大変残念です。
その時点での情報としては間違っていませんでしたが、物を教える教師という仕事は責任が大きいですね。
幸い、記念館があるとの事なので来てみたという次第です。


記念館の内部には送信設備を使用していた状態の配列で展示がしてあります。
これは送信設備の一番最初の部分の交流モーターです。
BERLINと書いてある通り、ドイツ製です。奥に見えるのは直流発電機です。


これは直流モーターです。
交流モーターが直流発電機を回し、できた直流の電気でこのモーターが回ります。
この辺まで見て行くと、何で電波を作るのにモーターや発電機?という疑問が沸いてきます。


最後にこの高周波発電機を直流モーターが回して電波ができます。
とてもまわりくどい方法ですが、直接交流モーターで高周波発電機を回すと回転が正確では無いため、
周波数が安定しないので、一旦、直流にして制御をかけながら高周波発電機を回すという事らしいです。
送信所というので巨大な真空管でもあるのかと思いましたが、
この時代の大出力送信は機械的なエネルギーを直接高周波へ変換する方法しかなかったようです。
中学の時に無線の免許を取りましたがテキストに真空管は出てきても高周波発電など書いてなかった。(と思う)
こういう方法で電波が作れるという事を初めて知りました。


これは高周波発電機に付いている表示です。やはりドイツ製です。
この巨大な発電機は毎分1360回転し、最大出力700kVAで5814Hzの高周波を作っています。
AMのラジオ放送の電波が100~300kW程度なので、かなりの高出力です。
ちなみに、地上波デジタルテレビの送信出力は3~10kW程度。


高周波発電機から出た高周波はこの巨大なコイルと巨大なコンデンサーによる共振回路を通って行きます。
このコイルは内側のコイルが前後に動いてインダクタンスを可変できる構造。
金属類はコイルの特性に影響が出るので、木組みのボディーで、釘も使っていないそうです。


上のコイルと対になるコンデンサーです。
まるでバッテリー郡の様な大きさですが、案外容量は小さいです。
高出力に耐えるようにしたため、大型になったのでしょう。


この筒型の装置で5814Hzの高周波は3倍の周波数に変換されます。
原理が書いてありましたがよく理解できませんでした。
これで送信する電波は17442Hzとなります。つまり、17.442kHzです。
日本のAM(中波)ラジオの電波は1000kHz付近なので、それよりもずっと低い事になります。
周波数が低い=波長が長い、という事で超長波(VLF)と呼ばれます。


てい倍器の後には巨大な電流計が付いていました。
単位が凄い!


送信装置の最後のコイルです。
かなりの大きさです。アンテナとのマッチングを取っている物でしょう。


巨大コイルから建物の外へ出てアンテナへと向かいます。
建物の壁に出ていた角は、送信機からアンテナへ向かうために、壁を貫通した碍子(がいし)でした。


これが送信設備の回路図です。


記念館は階段で上から設備を眺める事ができます。
最初の交流モーターから最後のコイルまでの一連の設備がよく見えます。
送信所と言っても巨大機械設備が半分を占めているので、工場の様な騒音だったと思います。


これは送信設備の操作盤です。
なんと、パネルは大理石!


これは外に立っていたアンテナ設備に使われていた碍子(がいし)です。
私は今の仕事に就く前は、この碍子を作っているメーカーに勤めていたので、
大変興味深く観察しました。


私の勤めていた会社の地元、愛知県にある送信設備なので、当然、その会社の物だと思って見ると..
メーカーロゴが違う!
「KYOTO」と書いてあり、菱形のマークが書いてあります。
後で調べてみると、これは京都にある松風工業という碍子メーカーという事が判りました。
マークは松葉に囲まれた<風>という事でしょう。
送信所の建設は1927年開始という事なので、1919年に創立した私のいた会社は既にありました。
推測ですが大電力用送電用の碍子を得意としていた会社なので、高周波分野は
松風の方が長けていたのかも知れません。 それにしてもちょっと悔しい。


これは250mもの鉄塔を一点で支えていた台です。
大地と絶縁する為に下部には先ほどの写真の右の方に写っている白い円盤型の碍子が
5箇所にセットされています。
アンテナのタワーの下部は鉛筆の先の様に尖っていて、この球形の台の上に一点で立っています。
アンテナタワーが風や地震で揺れても大丈夫な様に、関節の様な構造になっています。


これはアンテナタワーに付いていた航空障害灯です。
これの光が15k離れた私の住む場所まで届いていたという事です。


建設当時の写真や、送信所に関わる写真のパネル展示もありました。
これはアンテナタワーの支線交換作業の写真ですが、なかなかスリリングです。
高所がダメな人には考えられないでしょうが、私はこの作業、できる方の人です。


ビデオ上映のコーナーもありました。
椅子が幾つも並べてありましたが、ポツンと私1人で見ました。


アメリカ軍占領時代の送信所に掲示された注意書きの看板です。
アメリカは水中にも侵入できる超長波を使い、潜水艦に向けた送信をしていたという事です。


記念館の2階の窓から見たアンテナタワーです。
館内はしっかりと見学したので外にで出てアンテナタワーを見る事に..
結局、館内を1時間程度、見学していました。


紅白に塗られた250mあったアンテナタワーの下部です。アンテナ萌えですね..
今は25mで1本だけモニュメントとして残されています。
当時は250mが8本もありました。その頃の勇姿をもう一度見たいものです。
1929年(昭和4年)には運営されていたという事ですので、その当時に250mが8本というのは
とんでもなく、凄い事だったと思います。
1922年に長崎の佐世保市針尾島にできた送信所のアンテナは135~137mが3本ですので、
それよりも高く、本数も多いです。多分、当時の高さで日本一だった筈です。
250mというと、名古屋駅のタワーズやミッドランドスクエア、東京都庁程度の高さです。
ちなみに、1953年に建った名古屋テレビ塔は180m。 東京タワーは1958年で333m。
エッフェル塔は1889年で324mです。


鉄塔の脇にある表示です。
これによると、250mの鉄塔は当時、東洋一の高さという事らしいです。
700kWの送信電力は当時の長波としては世界一との事で、凄い設備だった事は間違いありません。
日本からヨーロッパまで中継なしで電波が送れるという部分にロマンを感じます。
携帯電話の様に近距離を幾つも中継して遠方まで到達するというのとは全然違います。
太平洋戦争突入の暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が送信された送信所の一つでもあるらしいです。
戦後はアメリカが使用していましたが、元々は日本が外交の為に作った平和利用の為の施設でした。


当初、思ったほど期待していなかった記念館ですが思いの外、見応えがありました。
そんなに広くもないのですが、かなりの時間、この場所にいました。
惜しいのは鉄塔が現存していないことです。アンテナマニアとしてはこれは大変惜しい..
地元にこのような施設があった事をとても誇りに思います。
前述の佐世保にある針尾送信所のタワーはまだ現存しているので、機会があれば見てみたいものです。

依佐美送信所記念館はとても貴重な資料が見られる場所です。
お近くの方は是非一度、見学してみてください。
アンテナ萌え~な方々には素晴らしいスポットである事は間違いありません。